1998年 夏 後半定着合宿報告
メンバ− 橋田 豊彦 3回生、 池内 友宏 2回生
8月28日 偵察 横尾B.C.〜涸沢岩小屋跡〜横尾B.C.
(8:00) (10:30)
29日 沈でん ・燕岳と槍ヶ岳の方で落雷があり死傷者がでていると
30日 沈でん いう。こえー。
31日 沈でん
9月 1日 横尾B.C.〜奥又白の出会〜奥又白池〜北尾根5.6のコル〜涸沢ヒュッテ〜横尾B.C.
(6:30) (7:35) (9:15) (11:35) (14:10)
・ 27日に徳沢園で奥又白池の方は通行止めといわれていたが、軽装で偵察に行くこととした。
奥又白池までの中畠新道は何ともなかったが、奥又白谷から5,6のコルまでの
トバラース路が崩壊しており左上のルンゼ状のブッジュから尾根へ1度出てそこから
5,6のコルへトラバースするはめになる。
・ 前穂4峰、東壁とも岩が一部崩壊しているようで地震も続いているので
奥又白池へB.C.を移すのはあきらめた。
2日 B.C.〜涸沢ヒュッテ〜北尾根5,6のコル〜3,4のコル〜前穂高頂上〜
(3:30) (5:25) (6:35) (8:20) (11:00)
奥穂高頂上〜北穂高南綾分岐〜涸沢小屋〜横尾B.C.
(12:35) (14:20) (15:50)
(17:25)
・ 北尾根より穂高連峰をラウンド。北尾根V峰の登りで3,4のコルより見えていた
終了点の方へ登攀するが、はじめのトラバースがどた靴ではかなり悪く、V級を
馬鹿にしたのがいけなかったのかと思いながらA0で登るはめに。
(やはり間違っていてようで奥又白側にルートがあった。)
・ 涸沢岳〜北穂高間は通行止めだったが、別に問題なく行けた。
3日 沈でん さすがに疲れていたので快沈する。
4日 B.C.〜屏風岩T4尾根取付〜T2東綾取付〜終了〜ブッシュ1ピッチ目〜
(4:30) (6:20) 8:20) (14:30) (15:30)
屏風の頭〜新村橋〜B.C.
(16:35) (18:20) (19:20)
・
岩小屋跡より涸沢を徒歩。T4尾根2ピッチ目かぶり気味の凹角がなかなか手強かった。
そして終了点からの1ピッチのブッシュで、2〜3メートルの岩が出てきてかなり恐怖を感じたが、
屏風の頭からの360度の展望はなかなかステキだった。
5日 沈でん 結構大きな地震が2回ほど起こる。
昨日起こらなくて良かったと・・・
6日 B.C.〜パノラマコース出合(涸沢)〜北尾根8峰コル〜7峰頭〜5,6のコル
(5:00) (6:30) (7:10) (7:55) (8:30)
〜涸沢ヒュッテ〜B.C.
(9:30) (10:10)
・ 8〜6峰はたいした登りもなく、道も明瞭。
・ B.C.に着いてから、飯を作るときに火の調節ミスでまたもや火災が発生し、テント入口燃える。
7日 B.C.〜上高地
(8:00) (11:00)
・上高地でソフトクリームをほおばり至福のときをむかえる。
1998年 夏合宿を終えて メンバ−の一言
《気象》
今年夏は太平洋高気圧の勢力が弱く、非常に雨が多かった。富山県も結局梅雨明けせず。
それと上高地方面では、群発地震があり行動が制限されることも多く、登攀時もいつ地震が起こるか
心配しながらのクライミングという状態であった。
橋田
《食糧》
今回の食糧計画は失敗でした。定着の生野菜が、4人のところが2人になったのに足りませんでした。
池内
《感想》
今回は合宿が長すぎて何をどう書けば良いのか分からないがとりあえず感想としては、
かなり天候は悪かったけど、かなり面白く、充実したし、かなり疲れた!と。
しかし、これだけ長期間テント生活したにもかかわらず6人用テントでの暮らしだったので、
生活技術は向上しなかった、というだけでなく逆に退歩してしまったのではないかと、思われるのが残念です。
これから部員が少ないながらも冬山に向け、気を引き締めて知識面でも技術面においても経験不足を補うべく、
努力をせねばと思いますので、OBの方々も山に対する知恵を御教授いただけます様お願いいたします。
最後になりましたが、私たちの無謀な計画に注意を下さりデポの面倒まで見て下さった雨宮さんと飯田さんに
「ありがとうございました」と。子供じみた文ですが非常に感謝しております。
(上高地にデポさせてもらえなければ、縦走がかなり苦しかったと思われます。)
橋田
横尾でひもじすぎて、よもぎを煮て食べました。
さすがに縦走を終えて、横尾に着いたときは足がぼろぼろで休息が必要な状態でした。
池内